エアコンを買えばよかった話
寝苦しい程の酷い暑さに、ただでさえ浅かった眠気が気付けば完全に覚めていた。寝ている間に掻いたのであろう、大量の汗でびしょ濡れになったフクが肌に吸い付き、体を動かせば動かす程にべた付いて寝心地も次第に悪くなってゆく。
ぱたぱたと襟を引っ張っては微かな涼みを得ていると、横で気持ち良さそうに熟睡しているチビッ子二人がふと視界の中へと入って思わずその微笑ましさに目を細めた。と同時に、二人を挟むように寝ていたはずの彼がいなくなっている事に気付き、まぁいつもの事だろうとその理由を深く考える事なく布団から出て気分転換がてら窓から部屋の外を眺めると、まだ空は暗く日は落ちたままで、申し訳程度に設置されている古い街灯がちかちかと路地裏を照らしていた。物音を立てないように扉を開けて外へ出ると、相変わらずむんむんと辺りを漂っている高い湿度に溜息が出そうになる。
「ジュースでも買ってくるかぁ」
ポケットに突っ込んであった小銭を確認し、人っ子一人もなく街灯の灯さえ付いていない暗い道をとぼとぼと歩く。広場まで出てしまえば自動販売機はすぐに見つかるけれど、散歩がてらそっと耳を澄ませれば向かう先からテンポの良いベース音が響いているのが聞こえてきていた。
相変わらず眠る事を知らないハイカラシティは、少し足を伸ばせば人の賑わいが彼方此方に存在する。子供の少ない今の時間帯に大人だけでバトルをしたり、秘密裏に賭け事をしてガチマッチに挑む少々危ないインクリングもいたりするが、さすがにそんなものに手を出す程の勇気もしたいと思う事もないけれど、深夜の街では闇の中に隠れてそんな取引をしている奴らもいる、という事だけでも認識しておかないとそのうちとばっちりを受ける可能性が否めないのも現実であった。
(確かこの辺に……っと、あったあった)
ようやく広場近くの路地裏で目的の自販機を見つけたはいいものの、普段はそのすぐ側で注文したギアを販売したりギアのスロットを増やしてくれたりしているダウニーが(勝手に)占拠している場所であったが、夜になると売り物の調達に行くのか今はその存在の形跡さえ無い為どことなく物寂しい雰囲気に包まれていた。あまり長時間いたいと思える場所でもなく、ついでにチビッ子達の分も適当に買っていこうと思い、さっさと小銭を入れてジュースを購入しようとしたその時だった。
「うおっ」
右肩に生暖かい何かが乗る感覚を帯びた。変な人には気を付けなければと心に決めたところでこの様である。驚いてすぐ後ろを振り向くと、そこにはこちらを窺い顔をにやつかせている見覚えのないインクリングのボーイが数人立ち並んでいた。明らかにただでは帰してくれなさそうにない強面ばかりで、これは少々まずい事になった、と率直に嫌な予感がして思わずごくりと息を呑みこんだ。
「こんな夜中にどうした、ニーチャン」
「若いからって、夜遊びは程々にしといた方がいいぞぉ」
「俺らみたいなのに絡まれちまうからなぁ」
「わははは、違ぇねえ」
こちらの意思など関係なく言いたい放題言いながら楽しげにし高笑いをするボーイ達に呆れて言葉も出ない。しかしガタイはそこそこ良い方らしく、自身と比べてみる限り、力ではどうやら勝ち目がないと確信できるくらいには見るからに肉体的な差があった。ここは多少の犠牲を払ってでも穏便に済ませる方向で行こう、そう思いこちらが一発目に発言した言葉は以下の通りである。
「え……とぉ、その、なんか、飲みます?」
恐る恐るなんとか声に出して発する事が出来たその震えた声にボーイ達は一瞬目を丸くした後、互いに視線を合わせては声を上げてげらげらと笑っていた(そこまで面白い事を言った覚えはない)。
「あ、あの……」
「……お前、そんなジュース奢ったくらいで切り抜けられるとでも思ったのか?」
「い、いえ、そんな、あはは」
勿論思ってました、とはさすがに言えないので心の中だけでそっと呟いておいた。すると、冷たい嫌な汗が体中に流れている中、不意にリーダー格のボーイと思われるインクリングに腕を掴まれ、そのまま体ごと引っ張られては金属フェンスに思い切り身を叩きつけられ、ガシャンと音を立てた分、ぐえ、と思わず悲鳴を上げてしまうくらいには背中に痛みが走った。いててて、と地べたに尻餅をついてひりひりと痛む尻を擦った直後、黒い影の中に自身が塗れたと思ったその時、休む暇などなく首元を掴み上げられ苛立った恐ろしい顔が目の前に佇んでいた。
「今日は大金賭けてたバトルに負けちまってイライラしてんだよ。俺らの溜まりに溜まったストレス発散に勿論付き合ってくれるよなぁ、綺麗な顔のオニーチャン」
「え、いや……つか俺、関係な……うぐっ!」
「はい、一発目。おい、次行け」
めちゃくちゃ痛い。思い切り腹を蹴られ、嗚咽を吐きながらもげほげほと咳をして呼吸を整えていると、今度は群れの後ろから湧き出たボーイに突然胸倉を掴まれては顔を殴られる。そのまま吹き飛ばされて地べたに転がり、口の中がどろどろする上にじんわりと鉄の味が広がって気持ちが悪い事この上ない。
そこで浮上する問題はこんなにも暴力的なリンチを受けた記憶は一切ない為(面倒事に巻き込まれないようにそういった類のものからは避けて過ごしてきたつもりである)、こういった場合の最善の対処法が分からないという事である。もしかしてこれ歯が折れているんじゃないか、本当に大丈夫なのか、ただ単に感覚がおかしくなっているだけなのか。これではチビッ子達に対して示しが付かないぞ、などとそんな呑気な事を考えている間にも、四方からげらげら笑いながら殴るわ蹴るわのお祭り状態なものだから、さすがにこちらも沸々と怒りが込み上げてきてしまう。
(こ、このッ……黙ってりゃあ、好き勝手しやがって!)
穏便に済ませようとしたこちらの気持ちを見事に踏み躙った彼らの行為は最早許さざるを得ない、さすがに我慢の限界である。
ここまでくれば勝ち負けなど関係なく強行突破してやろうと心の中で覚悟を決め(多少自信はないが)地を踏み出して目の前のボーイに一発だけでもぶち込んでしまおうか、そう思い拳を振りかざそうとしたその時。突然自身を囲んで悠長に蹴り倒していた数人のボーイが何故だか苦しみながらその場に沈み始めていた。
「な、なに……何だ?」
突如として空に響いたのは連続してインクの玉を吹かせた激しいバレルスピナーの射出音。辺りにはあっという間にインクが所狭しと散りばめられて、自分の額にも残念ながらべったりとオレンジ色が数カ所に広がっている。すると突然、薄煙の中で腕を引っ張られ体を強制的にがくんと持ち上げられた。
「走れ!」
聞き覚えのある声に咄嗟に反応し、痛む体に鞭を打ちながら言われた通りに地面を蹴る。後ろを振り向く余裕などなかった。ただただ必死に彼の後ろへとつき、ちゃっかり購入していた四本の缶ジュースを小脇に抱えてはうるさい怒号が聞こえなくなるまで深夜の路地裏を颯爽と駆け抜けたのだった。
***
「はぁ、はぁっ」
「やっと撒けたな」
夢中で走って逃げた先は、ちょうど来た道を戻っていたようで気付けば見慣れた路地へと抜けていた。心身共に(どちらかといえば身の方が)疲弊していたので我慢をせずそのまま壁に凭れては荒れた呼吸を整える。サファリハットで表情は隠れているものの、ブキを持ち俺の腕を引っ張りながら走って来た彼もどうやら限界のようで、のろのろと隣りに歩み寄るとすぐさまその場に腰を下ろした。
「怪我、見せてみろ」
「え、あ、いや。大丈夫だって」
「駄目だ。見せろ」
「……はい」
薄ら笑いをしながらやんわりとお断りを申し出たものの、残念ながら要望は通して貰えそうになく、大人しくTシャツを捲り上げ、自分でもまだ確認していなかった腹部とその周りの状態を確認する。すると、冗談でも大丈夫の一言では済ませられそうにない痣が数箇所にも及んでいて思わずがっくりと肩を落とした。これはもしかしなくてもしっかり怒られてしまうのではないか、そう思い恐る恐る顔を上げると、意外にもそこには申し訳なさそうに眉尻を下げ気まずく視線を逸らしている彼がいた。
「……悪い」
「な、何でオマエが謝るんだよ。寧ろ、助けてもらってる俺が礼を言いたいくらいなんだけど」
「いや、それは、そうなんだが」
「はぁ…でも、ほんと助かったよ。チビッ子達の手前、情けない姿見せられないもんな」
あまりに冷たい雰囲気に、ハハハハと乾いた笑いを漏らしながら場を和ますように話すも、彼からの返事は全く持って返って来る気配はなく。
「……」
「……」
ただただ、しんとした重い空気が流れて呼吸をするにも苦しさを感じて、普段であればこんなにも話しづらい雰囲気になる事など全くなかったというのに、今夜だけはどうも彼の様子が明らかにおかしい。
(な、なんなんだ一体……)
いつもならば厄介ごとに巻き込まれた際、拳骨のひとつやふたつが飛んできてもおかしくない。しかし、一向にだんまりを決め込んでは一言も文句も何も発して来ない彼を見て寧ろ少し怖さも感じ、さり気なく話題を変えてみる事にする。
「ま、まぁいいか。そろそろ帰らないとな。もう全力疾走はこりごりだし」
「俺のせいだ」
「は?」
「俺のせいなんだ。本当に、すまなかった」
耳を疑った。今までこんなにも弱気な彼を一度でも見たことがあっただろうか。腹の青痣を壊れ物のように優しく触れた彼の手は確かに震えていた。その震えに奥底で沈んでいた不安が急に蘇ってきて、思わず自分自身を落ち着かせるようにその手に重ねた。
「お前らしくないぞ。少し落ち着いたらどうなんだ」
「あぁ……あぁ、そう、だな」
「少しずつでいいからさ、話してくれないか。どうしてこんな夜中に外へ出てったのかも気になるし」
「……分かった、全部オマエに話す。別に隠してた訳でもなかったんだが」
そっと距離を置いた彼は、やっとの思いで帰って来た団地の入口にある階段に腰を下ろした。事情を話し出した彼に持っていた缶ジュースを投げる。自身も缶のプルタブをぷしゅりと音を立てて開け、カラカラだった喉を潤すようにそれを一気に流し込んだ。
「暑さのせいで寝付きが悪いもんだから、ここ最近軽い運動がてら、夜中に一人でふらふらとガチマッチに参加していた。気分転換のつもりだった。だが、今日は見事にそこでハズレを引いちまったらしい」
「ハ、ハズレ?」
「さっきの奴らだ。俺が出てたバトルで賭け事をおっぱじめやがった。で、どうやらその賭けに負けた時はいつも、勝ったチームを憂さ晴らしに裏でボコボコにしていたらしい。だのに、オマエが襲われたという事は……どうやら、今回は色々と俺の身元がバレていたみたいだな」
重い溜息と共に淡々と話す彼に開いた口が塞がらない。一体どこから突っ込んでいいのかもよく分からない。ただ羅列するとすれば、そうしてそんな危険な奴らがいる事を知りながら一人バトルに参加していたのか、どうして一言相談してくれなかったのか(エアコンくらい買えよ、と言ってやったのに)、というか身元がばれてるとはなんだ、プライバシーの侵害にも程があるだろう、等々である。そんな渦巻いた頭の中の感情が顔に出ていたのか、彼は心配そうな表情でこちらを見上げていた。
「ケンカじゃ勝ち目がないと分かってたんだろう。そのせいで矛先がオマエに向いてそんなケガをする事になった。だから、全部俺が悪い」
そう言って、すまんと再び深々に頭を下げる彼に尚更苛立ちが募る。しかし、怒鳴る事も説教する事もしない。何故なら、それ以上に安心感の方が上回っていたからだった。
(結果オーライ、だったんじゃないか)
元々さっきの不届き者は元々は彼狙いだった。悪い事をするから罰が当たっただけなのに、憂さ晴らしと言って関係のないインクリング達に暴力を振るなど断じて許される事ではない。ひとつ何かが違っていれば、目の前の大切な人が自分の知らないうちに傷付けられていたかも知れない。そう想像しただけで身震いしてしまう程に恐ろしい事だった。
「はは、そうか……良かった……」
自然と零れた自分の言葉に驚いて、彼の細い目がかっと見開いた。その場にへたり込んだ体はまるで力が入らず、支えるように地面を両手の平で押し出すとそのまま夜空を見上げながら大きく息を吐いた。
「オマエがケガしてなくて、本当に良かった」
「っ……この、馬鹿!」
「いだい! ひどい! 何すんだ!」
突然、相方が投げ飛ばした空き缶が見事に額へと直撃して実に腹立たしい。その上人を馬鹿呼ばわりするとは失礼極まりないボーイである。こうなればこちらからも反撃してやろうと、持っていた空き缶を高く持ち上げたその時、彼の表情を垣間見た瞬間その気は失せてしまった。
「俺は、全然良くない!」
「え、あっ、んうっ!?」
いつの間にか目の前まで近寄ってきていた彼の寂しそうな顔で視界が埋もれる。あ、と口から溢れた声を止めるように乾いた唇が重なり合った。あまりに急だったせいか上手く呼吸が出来ない。ようやく解放されたかと思えば膝立で真正面から抱き締められると、そのままTシャツの裾からそっと彼の手が侵入してきたのが分かった。
「結構、心配してたんだからな!」
「ご、ごめん……って、ちょちょちょ、ちょっと何! 何してんだよ!」
「……傷跡の確認をしているだけだが」
「嘘付け! ぁ、んんっ……ぐっ、や、やめ……うわ! そ、そそそそそそこはやめろっ!」
彼方此方に散らばる痣を撫でられるように触れられて、所謂俗に言う少々邪な感情が自分の中で確かに生まれていた。真夜中とはいえ、外でこんな事をする趣味はないが、そのまま流されそうになっている事実は残念ながら否めない。彼の手がついに股間の方へ伸び始めたのが分かってようやく正気に戻ると、縦横無尽に行くその手を必死に止めるように抑え込んだ。すると、意外にも強行突破をするつもりはないらしくその手は素直に自陣へと引っ込んでいった。
「……一度、不安になってさっきオマエの家に戻った」
「え、そうなの?」
「そうしたら、鍵は開けっ放しでどこを探しても姿が無い。もしかして、誘拐されちまったんじゃないかとも思った」
「あ、あはは……」
すいません、ジュース買いに行ってました。
自分が外へ出ている間にそんな事があったとは露知らず、というものの少しばかりの後ろめたさに少々心臓が唸った。
「あいつらが何を考えているのかなんて察しはついてたし、オマエに手を出される前になんとかしたかったが遅かった。ついぶち切れてスピナーぶっ放しちまったし」
「……まぁ、正直あれはどうかと思うぞ。助けてもらってなんだけど」
眉間に深い溝を作りながら不機嫌そうに淡々と語る。街中でのブキの使用が許されていないのは、この街に住んでいるインクリングなら誰もが知っている禁止事項で、そもそもブイヤベースでいくらでも試し撃ちが出来る為、そのルールを自ら破ろうとする者はなかなかいない。それを顧みず自分を助けてくれた事は、無抵抗のまま終わった自身を情けなく思いながらも勿論とても嬉しかった、そして直接は絶対に言えないけれどあまりにかっこよすぎて思い出すだけで顔が熱くなってしまう程だった。
「だから、その。どうしたらいい」
「いや、何が?」
「どうしたら俺はオマエに許してもらえる」
「はぁ?」
サファリハットの鍔を下げながら唐突にそんな事を言われてもこちらとて非常に困る。そもそも許しを請われるような事もされてなければ、彼の何に対しても怒っていない。しかし、今彼がどのような気持ちでそんな言葉を言っているのかはどことなくは理解する事が出来た。
(変なところ、気にするんだもんなぁ)
寧ろこちらが頭を下げなければならないというのに、目の前の相方はあまりにも律儀にも程がある。
「あいつらがこれで大人しく引くとは思えん。俺がなんとかする。でも、それだけで許されるとは思っていない。頼む、教えてくれ。何でもする。俺は一体、どうすればいい」
案外、見かけによらず面倒くさい性格をしているのは知っていたが、今回ばかりは本当に面倒くさいと思った。しかし、その訴えは冗談で言っているとも思えない、ずっしりと重みのある言葉だった。そんな小さな事を気にしなくていい、そもそもオマエのせいじゃない、と今彼の目の前で言い切るのは簡単だった。しかし、以上の通り彼は非常に頑固な上に石頭ときている。穏便に済ませようとしたところで、それでは納得できないと怒らせてしまうのがオチであるのは目に見えていた。ここは機転を利かせた返事をするに限る。そう、例えば。
「じゃあ……明日から俺も一緒に夜にバトル連れてってくれよ」
「は!? 何言ってんだ、もう二度と行くかよ」
「ボーイに二言はないぞー。さっき何でもするって言ったよなぁ」
「チッ……。なかなかオマエも汚い手を使う。惚れ直した」
「ははは、ほんと何言ってんだ。まぁでも、案外いいアイディアかも知れないぞ」
どうだ、してやったり。恨めしそうにもどこか嬉しそうな、にやりと口元を上げた相方の悪い表情につられて自分も怪しい笑顔になってしまった。
「……そうか。二人でいれば、単体で狙われる心配はないな」
「なにより、夜に行かないと仕返しできないからな」
「オマエのそういうところ、嫌いじゃない」
街のどこか遠くで高らかとサイレンの音が響いている。その中で一言、ぼそりと何かを呟いた彼の言葉は聞こえなかった。それでも、不思議とそれがなんとなく分かったような気がして、家の中へ入ろうと立ち上がった背中に、自分に言い聞かせるかのようにそっと小さく返したのだった。
「どういたしまして」
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