カツ丼を食べ損ねた話

 人は数年を経過すると、画面の先で見た人間の顔なんてそう覚えている人なんていない。数年どころか、先週見たお天気キャスターのお姉さんの顔もあまりはっきりしないような気もする。とは言っても、全世界に戦いの様子が放送されていた訳で勿論存在を認知はされているけれど、案外街中では誰にも気付かれないし、精々役所や公共の場でフルネームを名乗った時に、もしかしてあの、と囁かれるくらいで案外生活に支障は出ていなかった。けれども、あの大戦から優に五年以上が経過した今でも、緑谷出久は世界を救った英雄でありヴィランにとってそれを討ち取ることは名誉になるのだと信じて疑わない輩がいる。そしてまた、大・爆・殺・神ダイナマイトの幼馴染であると知られているせいか、彼を逆恨みしている連中が餌として使いたがる節があるようで、今日もまたこうして集団で囲われた僕は抵抗虚しく手足を拘束されたまま、暗い廃工場の埃っぽい地面へ雑に転がされているというわけである。  本来であれば抵抗はする。ただ、今回は人数が多かったのとその全員が周りを巻き込んでまで派手に破壊行動をする輩であったため、他に危害を加えさせないためには大人しく食い下がることが最善策だったのだ。引きずり込むだけ引きずり込んでおいて既に人気はなく、本当に大・爆・殺・神ダイナマイトを呼び寄せるだけの餌なんだろうなと思うと段々とかっちゃんに対して苛立ちが沸々と湧いてくるものだから不思議だ。いや、勿論かっちゃんが悪いわけではないことくらいは理解しているけれど、敵を作りすぎないようにもうちょっと配慮してくれたっていいのではないかと文句は言いたくもなる。この間、昼ご飯を一緒にした時にもチャートが下がるから暴言は控えてよと助言したばかりだというのに、その言葉が本人に響いたことは一度もない。自分自身を貫く精神に尊敬はしているけれど、それのおかげで巻き込まれる人々のことも少しは考えて欲しいものである。でも、相澤先生でも矯正ができなかったのだから僕に出来るかと言われると正直自信はないし、多分無理だと思う。 「お腹すいた……」  せっかく今日は珍しく定時で退勤して、そのまま帰りがけにカツ丼チェーン店で大盛り無料クーポンを使って夕飯を楽しむつもりだったのにこれである。クーポンの使用期限だって今日までだったのに。本当に許せない、僕のささやかな幸せを邪魔するなんて極悪極まりない。カツ丼そのものだって、多忙が重なりもう三週間は食べていない。食べた後は何ヶ月かぶりに湯船に浸かり、ほかほかにあたたまった体でネット配信されているヒーロー特集の番組を見ながらビール缶を開けようと思っていたんだ。それがこのざまだ。くそ、めちゃくちゃ腹が立ってきた。 「誰が責任取ってくれるんだ、くそおっ」  僕の手足を拘束している器具は、一丁前に特殊な金属で作られているようでそう簡単には外せそうにはない。工場内はとても静かで僕が身動いで擦れる砂の音しか聞こえない。ヴィラン達の声さえ聞こえないということは、外かまた別の工場内で大・爆・殺・神ダイナマイト本人と交渉し呼び寄せているのかも知れない。と、いつもの癖で一人ブツブツと熟考していると、工場の外でとんでもない大きさの爆発音と痺れるような破裂した光、その衝撃で一瞬閃輝暗点が起こり堪らず目を瞑った。 「初手でハウザーはまずいよ、かっちゃん……!」  地面を抉るような衝撃が波打ち音より遅れて体が揺れる。同時に、重く閉められていたはずの扉が易易と吹き飛ばされ、そこから覗いた外の惨状に思わずうわあと引いてしまった。もやついた黒煙の中からずりずりと足を引きずり姿を現した彼は、想像していた通り非常に機嫌が悪そうで眉間の皺がまるで底の見えない谷、吊り上がった目は血走っていて私は今キレていますと言わんばかりに怖さが普段より増している。怖い。 「や、やあ。お疲れさま、二日ぶりかな。えと、来週の特別講習だけど、あはは。よろしくね、生徒も楽しみにして……むぐうっ」  身動き出来ずに横たわったままの僕の目の前にしゃがんだ大・爆・殺・神ダイナマイトは、その場凌ぎの言葉を握り潰すように顔を掴んできて離さない。これは久方振りの顔面ゼロ距離爆破か、と覚悟するも束の間。かしゃりを音を立て開放された両腕、両足、恐らく無線のリモコンのようなもので解除されるものだったらしい。拘束が解かれたことを確認したかっちゃんはそのリモコンを投げ捨て、立て、とだけ一言申した。勿論顔を掴まれたままである。 「ヴウッ、どうか御慈悲を」 「……うるせェ、黙ってろやァ……」 「は、ハイ……」  言われたとおりよそよそと立ち上がり、砂だらけのスーツを払うように全身を叩かれる。と同時に、何故かそれ以外の箇所を撫でるように触れたり、腕を掴み上げ下げしたり髪をかきあげ何かを確かめるようにじろじろと見てみたり、終いには足を蹴られた。反射的に痛いと零すと、よしと返され、尚更意味が分からないまま静かに立っていると、満足したのか握り潰されそうだった顔はようやく解放され、ちかちかした次回の中に彼の表情がぼんやりと浮かんでいった。 「……かっ、ちゃん」 「言うことあんだろ」 「えと、その……ご、ごめ」 「違ぇ」 「うっ、お……あ、ありがとう」  意外だった。以前同じような目に遭った時は、こんなに焦燥した顔をしていなかった。今はどうだ。明らかに、動揺して肩で息をしながら余裕もへったくれもないような、死ぬ気でここまで来ましたといった形相なものだから、来たら文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに、そんな考えはいつの間にかどこかに飛んで消え失せていた。それどころか、無意識に腕を伸ばし、彼の顔を首元に埋めてはそっと熱の籠もるその体を抱き締めてしまった。 「ありがとね、ほんとに」 「何もされてねえだろうな」 「されてないよ。だって、僕だぞ?」 「ンなの関係ねえ」 「そうだね、心配掛けちゃったね」  あのヴィランたちに何を言われて彼はここに飛んできてくれたのだろう。大・爆・殺・神ダイナマイトの精神をここまで不安定にさせる言葉を思い付くなんて、とんでもない地雷作成のプロに違いない。もしくは、それとも。 「真っ直ぐ家に帰るくらいその辺のクソガキにだって出来んぞ」 「うん」 「教師のくせに示しつかん事しとんじゃねぇ」 「そうだね」 「……何かあったら呼べっつっとんだ、クソ」  二日前、喧嘩したばかりだった。ごめんも言えずに飛び出して、そのまま帰らずに今日までホテルで過ごしていた。連絡も無視して、気が収まるまで距離を置こうと思ってた。それで、今日を迎えた。 「ごめんね、ごめん。一緒に、おうち帰ろう」 「ン」  恋人にこんな悲しそうな顔をさせて、僕は一体何をしていたんだろう。くだらないプライドばかり守って、大切なことを見失っていたのかなと考えながら、ぐりぐりと首元に顔を擦り付けてくるかっちゃんを横目に、やっぱりカツ丼くらいは奢って貰ってもいいかなと心の中で小さく笑ったのだった。

(2026.02.01)

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