会話の練習をする話
まず初めに困難を極めたのは会話だ。少なくとも小学から現在に至る約十年という長きに渡る年月の中で、まともに会話することが出来た記憶はほぼない。自ら声を掛けに行くならまだしも、突然背後から名前を呼ばれるような時にはその瞬間に頭が真っ白になるくらいに慣れていないのだ。そう、慣れていないだけで嫌だと思ったことはない、寧ろ嬉しいことだ。なにせ少し前までは許されもしなかったのだから。 「そ、それでね。僕、慌てちゃってさ。飯田くんが急にエンジン掛けてまで走り出すから、飲んでたお茶吹き出しちゃって」 「ハッ、クソザコ」 「廊下走ってた子を注意するために、廊下走りながら追いかけちゃうもんだからさ。結果的に僕が飯田くんを注意することになって、その後ろで僕を轟くんが注意するっていう訳の分からないことになって、なんだかちゃんちゃらおかしかったよ。その場でみんなしてお腹抱えて笑っちゃった」 物凄い早口になった。よくぞ噛まなかったと褒めたいくらいには。普段から癖になっているブツブツした喋り方ではなく、なんかもう必死すぎてそれこそ思い返すだけで笑いそうになるくらいには、顔を真っ赤にしてベラベラと喋る様子はさぞおかしく見えていただろう。少し前のかっちゃんだったら話している途中で即爆破か、もしくは胸ぐら掴まれてからのうるせえの一言で終わりだ。終わっていたはずだった。ところが一向にそういった爆音も罵声も轟くことなく、深夜の静けさだけが残る宿舎の共有スペースには虚しくも自身のでかい独り言のような話ばかりが響いていた。彼にとっては面白い話ではない(僕は死ぬほど面白い話だと思っている)ので、笑い声が聞こえないのは当然だと考えてはいたが、怒り声が飛び出さないのも甚だ疑問である。こちらとしては飛び出さない方がありがたいけれど。 「……あの、かっちゃん」 恐る恐る、何も写っていないテレビの液晶画面から右隣にいる存在へと視線を向けた。漫画やアニメにある効果音で表現するならば、恐らく錆びついた蝶番が擦れたようなギギギ、という音がぴったり合うくらい不自然だったと思う。 「ンだよ」 「えと、その……もしかして、眠れないの?」 「別に」 「えと、じゃあ……小腹空いたとか?」 「こんな夜中に余計なモン食ったら不健康だろが」 「そ、そか。じゃ、そろそろ部屋戻る? あんまり出歩いてるのもよくない、し……ぃっ!?」 隣りに座っていたかっちゃんとの距離は、実を言うとほぼ零に近かった。それが主に今、この場の緊張感をより高めている原因の一つでもある。そしてもう一つが、こんな夜中に部屋を抜け出して共有スペースでお茶を飲んでいるのが今、僕とかっちゃんだけという逃げることを許されない状況。そして今、なんと。突然体が傾いたかと思えば、僕の右肩にゆっくりと彼の左肩が触れた。触れたどころではない、完全に体重を掛けられているのが分かる。じんわりと伝わる柔らかな体温が服越しに伝わって、堪らずごくりと息を呑んでしまった。背中に流れる冷や汗はとんでもない量になっている。 「か! かっ、かっちゃ」 「肩貸せ」 「なん」 「寝る」 「ここで!?」 「少しでも動いたら殺す」 いつもより遥かに力の篭っていない声と共に、ついには頭が触れ合いそうになる程、寄り添い合うというよりは重さで潰されそうなくらいがっつりと身を任せてきたかっちゃんに驚きを隠せずにいる。五分もすれば静かな寝息が耳元で聞こえてきて、なんで眠いのにわざわざ起きてきたんだよ、と小言をついても反応がないあたり本当に寝ている。 「……変な、かっちゃん」 寝ている人間の体温は起きている時よりも高い。時間も時間であったし、眠気がなかった訳でもないから彼の体温に充てられて次第に僕の瞼もゆっくりと下がりつつあった。こんな状態のかっちゃんを目の前で見られるのは貴重なのに寝てしまうのも勿体無いな、と思いつつもさすがに抗えそうにもない。いつの間にか、膝の上に置かれていた左の手の平に右手を重ねる。無意識だった。重ねてから、怒られるかなと思ったけれど、意外にもそれは受け入れられたようで、ゆっくりと絡ませるように握り締められ、ぎゃっと声を上げそうになってどうにか耐えた。でも、ふと小さい頃に手を引かれてカブトムシを取りに行った夏を思い出して嫌な気は微塵も起きなかった。 翌朝、隣りに居たはずの熱が消えていることに気付いて目が覚める。どこから持ってきたのか分からないブランケットが知らない間に掛けられていて、たまたま通り掛かった障子くんに誰が掛けたのかを聞く。見ていないから分からないと言われ、礼を言って別れたあとに改めてそのブランケットを持ってとりあえず部屋に戻ることにした。 (不思議な体験をしてしまった) 都合の良い夢だったのでは、とさえ思う。でも、昨夜感じた懐かしい温もりが妄想ではないことくらいちゃんと分かっていた。まだ朝ごはんにも早い時間、眠ったはずなのに変に体が疲れているのはソファでうたた寝をしたまま長時間眠っていたからだと思うけれど、きっと原因はそれだけじゃない。 部屋のベッドに寝転がり、無意識に持っていたブランケットをぎゅっと抱き締め顔を埋めた。手触りの良い柔らかな、それでいて昔から嗅ぎ慣れた身近な匂い。 「匂い……匂いて!」 さすがに変態的な思考すぎる、よりによってクラスメイトの誰かの物かも知れないのに。思わず自分で自分を殴りそうになって、ふと気付いてその手を止めた。 「…………あー、マジかあ……」 気付かない方が幸せだった、と思ったなんて知られたらまた怒られそうだなあと悠長なことを考えるくらいには余裕がある。時間的にも、気持ち的にも。全ての思考を投げ捨てて、着替えもしないままに部屋を飛び出し宿舎の外へ走る。途中ですれ違った轟くんの眠そうな顔を見て、足を止めずにおはようと声をかけた。 恐らく今の時間、かっちゃんはお決まりのコースで日課の早朝ランニングへ出向いているはずだ。 「かっちゃん!」 相変わらずストイックでタフネスな彼の背中を見つけ、猛ダッシュで追い掛ける。明らかに、げ、という顔で振り向かれた。 「おはよう!」 息を乱さず、安定したペースで走っているかっちゃんは少々分が悪そうに、しかしやはり罵倒することなく、はよ、と挨拶を返しては前を向いてランニングとは思えぬスピードで道を駆け抜けていく。 「何周目?」 「五」 「うわ、やば」 「ただでさえ鈍足のクセに寝起きで俺に勝てると思うなよ」 「それはやってみないと分からないじゃないか」 「ハッ! だったらあの委員長を追っ掛けたっつー時のスピードで走ってみろや!」 かっちゃんこそ夜更ししたのにその元気はどこから来てるんだ、などと疑問を浮かべつつもそんな余裕はなかった。なにせ、彼の隣で真っ直ぐ走り切る気持ち良さがあまりに心地良くて、今はただひたすらに、僕の頭の中はその足を止めないことだけでいっぱいいっぱいだったから。(2026.01.15)
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